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御由緒
当宮は古代、崗地方(旧遠賀郡)を治めていた熊族が洞海・菊竹浜(貞元)に祖先神を奉斎した地主神にて、岡田の宮と称し、この地を熊手と号す。
神武天皇日向国より東征の途次、当宮に詣り天神地祇の八神(八所神)を奉斎し、この地に留まり給う由「古事記」にあり。
仲哀天皇8年(199年)、神功皇后、三韓征討の折、崗県主祖・熊鰐の案内で熊手出岬(皇后崎)に到り、当宮に詣り八所神を親祭する由「日本書紀」にあり、これを岡田の三宮と称し「天」「地」「人」の三才を表す。
古来当地は北部九州における海陸路(洞海船留、皇后崎津、太宰府官道)の要に位置し、皇室、公家武門、武将等の崇敬篤く、祭礼法度を定め社領18所、末寺9坊と栄えたり。
天慶3年(940年)、藤原純友追討の折、追捕使の主将・小野好古、副将・源経基、戦勝祈願の為に当宮に参詣し、三環鈴を奉納す。此の神鈴今も当宮に伝来す。
建久5年(1194年)、征夷大将軍・源頼朝の御家人・宇都宮上野介重業、平家討伐の功によりて筑前国遠賀・鞍手両郡のうち三千町を賜わり、当宮の祭祀を波多野重満大夫藤原兼直に奉仕せしむ。
永禄2年(1559年)、大友宗麟の兵火に遭い社殿焼亡するも、永禄8年(1565年)、麻生上総介元重、社殿を再興せしむ。此れの棟札今に残れり。
慶長10年(1605年)、黒崎城築城の際に筑前六宿の起点となりて現在地に御遷座され、福岡藩祈祷社・黒崎宿の産土神と定めらる。
爾来、藩主はもとより、長崎街道参勤の九州諸大名の崇敬篤く、社殿造営・社参奉幣等多く、又上り下りの文人墨客等数多く参詣せり。
慶応元年(1865年)三条実美卿、大宰府に流謫の途次、従士・土方久元を伴いて当宮へ参詣し、維新回天の大願成就を祈念し和歌一首を奉納す。
鎮座地
福岡県北九州市八幡西区岡田町一番一号
御祭神
中殿(岡田宮)
- 神日本磐余彦命[神武天皇]
(カムヤマトイワレヒコノミコト)
右殿(熊手宮)
- 大国主命(オオクニヌシノミコト)
- 少彦名命(スクナヒコナノミコト)
- 県主熊鰐命(アガタヌシクマワニノミコト)
左殿(八所宮)
- 高皇産霊神(タカミムスビノカミ)
- 神皇産霊神(カミムスビノカミ)
- 玉留産霊神(タマツメムスビノカミ)
- 生産霊神(イクムスビノカミ)
- 足産霊神(タルムスビノカミ)
- 大宮売神(オオミヤノメノカミ)
- 事代主神(コトシロヌシノカミ)
- 御膳神(ミケツカミ)
神々の系図
岡田宮は日本の代表的な歴史書にも登場しています